丹波焼の歴史・特徴・製法

    History, Characteristics & Techniques of Tamba Ware
    Beyond change, tradition lives on.
    The unbroken beauty of handcraft over 850 years

    ​丹波焼を知る

    およそ850年受け継がれる丹波焼は、瀬戸、常滑、信楽、備前、越前とともに日本六古窯の一つに数えられ、その発祥は平安時代末期(12世紀末頃)といわれています。

    – 歴史 –

    – 歴史 –

    丹波焼の創業

    丹波焼の創業は、平安時代末期(12世紀末頃)であることが近年確認されました。これまで鎌倉時代中期(13世紀前半)をさかのぼる出土品が明らかでなかったためにその発祥は不明とされてきました。

    しかし、昭和52年(1977)県道改良工事に伴い、兵庫県教育委員会によって三本峠北窯の物原(捨て場)の発掘調査が行われ、2022年に出土品の再整理が行なわれた結果、鎌倉時代初期の「絵のある古丹波(刻画文壺(こくがもんつぼ))」を主体とした壺や甕(かめ)などが出土していることが確認されました。

    ただし、国内に伝わっている丹波焼の製品には、三本峠北窯より年代が古い物も認められます。このことから、丹波焼発祥の地はこの周辺であり、その開窯期は平安時代末期であることが推定されたのです。

    ​丹波焼の起源

    須恵器説​
    丹波焼の起源を須恵器とする諸説があります。須恵器は5世紀頃、大陸からの技術の導入によって大阪府南部で作られはじめた陶質の土器で、5世紀中頃から6世紀に入って、全国にその生産地が拡がりましたが、13世紀以降は陶器の登場により、急速に衰退したといわれます。

    現在の丹波焼の郷、立杭から5km程北に位置する丹波篠山市今田町辰巳字水谷(すいだに)において須恵器の窯跡が発見され、ここから多くの須恵器が出土したと言われることから、ここが丹波焼の発祥の地とする説もありますが、これを否定する研究家も少なくありません。

    また、立杭から10km程南東に位置する三田市の末(すえ)地区からは5世紀に遡る須恵器の窯跡が発見され、南の相野(あいの)周辺の丘陵では、平安時代の10世紀の須恵器の窯跡群が多く発見されていることから、距離的に近いこの地の須恵器生産が丹波焼発生の背景にあるという説もあります。しかし、三本峠北窯からの出土品をみると、その製品は須恵器系の製作技術によるものではないとする研究もあり、丹波焼の起源については判然としません。

    丹波焼の陶祖
    丹波焼の陶祖についてもさまざまな伝説があります。たとえば伝承の上で日本各地を渡り歩いたと言われる長門国萩(現:山口県萩市)の陶工、風呂藪(ふろやぶ)惣太郎(宗太郎)が、大同元年(806)にこの地を訪れ、陶法を伝えたという説があり、丹波焼の陶祖として、現在も上立杭の陶器神社の祭神として祀られています。

    また、下立杭の墓地にある元和2年(1616)建立の碑は、陶祖風呂藪惣太郎の碑とも、あるいは慶長のはじめ(16世紀末〜17世紀始め頃)、篠山城が出来るまでのこの地の領主(前田主膳正)が名工宗太郎に与えた「早苗豊後守(さなえぶんごのかみ)」の碑であるなど、さまざまな説や伝承がありますが、いずれもその真偽を明かにする確証はありません。

    ​丹波焼の製品
    暮らしの変化に応じて、柔軟に変化し続ける

    穴窯時代 12世紀末頃〜16世紀|
    大型の壷や甕、すり鉢をつくる

    ​穴窯時代の主な製品は、米や水などの貯蔵用に用いる無釉で大型の壷や甕(かめ)、穀物や豆類をすりつぶしたり、粉を練ったりする擂(すり)鉢や練り鉢などで、末期に至り船徳利・ラッキョ徳利などの大型徳利や、桶・盤も作られるようになりました。
    窯の内部で薪の灰などが器に着いて化学反応し、自然に出来た濃い緑色のガラス釉が美しい作品が多い事でも知られています。​​ 

    江戸初期 17世紀頃|
    登り窯の登場。技術で製品が「多様化」

    より熱効率の高い登り窯が登場し、蹴りロクロや人工釉が使用されるようになり、製品も多種多様化しました。特に赤土部釉の使用に特色が見られ、鮮やかな赤色に発色した製品が焼かれました。

    また、代表的な製品として鉄釉や灰釉のかかる山椒壷があり、穴窯時代から引き続き壷や甕も多く作られました。新しい製品としては、片口、薬研(やげん)、各種の鉢、油壷・塩壷などの小壷、各種の茶器などが作られるようになりました。

    江戸前期の製品 17世紀後半|
    茶器の生産。擂鉢の全国展開

    江戸時代前期には、壺や甕のほかに茶碗や茶入、水指(みずさし)、建水(けんすい)などの茶器も焼かれるようになり、茶人大名の古田織部(ふるたおりべ)や、小堀遠州(こぼりえんしゅう)好みの茶器が製作されました。

    小堀遠州の指導で作られたという丹波焼の作品は「遠州丹波(えんしゅうたんば)」と呼ばれ、収集家に珍重されています。また、このような高級品が生産される一方で、日常で使われる擂鉢の生産も盛んになり、大坂や京都、遠くは江戸の遺跡で破片が出土し、全国に向けて丹波擂鉢が出荷されていたことが発掘調査で明らかになりました。​

    江戸中期 18世紀頃|
    茶陶の隆盛、そして他に類をみない「徳利」の​​​​黄金時代へ

    茶入・水指(みずさし)・茶碗・建水・香炉・蓋置などの茶器が全般的に作られるようになり、とりわけ丹波焼を代表する徳利は、各種の瓢箪(ひょうたん)形徳利をはじめ、浮徳利・エヘン徳利・ローソク徳利・傘徳利・海老徳利・鶴首徳利・筒描貧乏徳利など、50種類を超える多種多様な徳利が生み出されました。

    そのほか装飾的文様を施した壷・花器や鉢・皿・植木鉢、神仏供花用花立、書道用水滴、湯たんぽなどが作られています。​ 

    江戸末期 18世紀後半〜19世紀中頃|
    白色の陶器「白丹波」の登場

    江戸時代末期には、立杭周辺で白土薬が採取されたこともあって、「白丹波」と呼ばれる白釉を使用した製品が多くなり、徳利・壷類をはじめ飯碗・鉢・湯呑など多種の製品が作られました。​ 

    明治大正 19世紀中頃〜20世紀前半|
    酒・醤油の容器「大型徳利」そして「中型」容器へ

    明治時代は酒や醤油などの大型徳利が主製品となり、販路も東北地方から九州地方まで拡がりました。大正時代に入ってガラス瓶が普及したことにより、それまで大量に生産されてきた大型徳利に代わり、3升(5.4リットル)・5升(9リットル)・1斗(18リットル)入りなどの中型樽形容器の製造に切り替わりました。

    昭和初期 20世紀前半|​​​​
    植物鉢の生産​​から、戦時下の軍用品生産へ​ 

    和の初頭は蘭や菊・朝顔などの植木鉢需要が急増し、これが製品の主力を占めるようになりましたが、まもなく起こった経済恐慌の浸透によって、丹波焼も不況のどん底に陥り、​​​​第二次世界大戦​​の戦時下においては、硫酸瓶・薬品瓶などの軍用製品が主流となって、戦争末期には地雷薬莢(やっきょう)の製造に当たらされました。​

    戦後 20世紀後半|
    工業化の波と「用の美」の再発見

    ​戦後しばらくは日常生活物資の不足によって、壷や甕・すり鉢などの需要により、生産高は順調に伸びましたが、やがてこれが飽和状態となって再び苦境に陥りました。やがて機械ロクロの普及により、戦前からの硫酸瓶や土管等の工業用品や、駅売りの汽車茶瓶・どんぶり鉢、さらには陶器ブロックや瓦、菰被(こもかぶ)り用酒樽などが大量に製造されるようになって、伝統的な丹波焼は大きく姿を変えました。 

    こうした大量生産の一方で、戦前から細々と作られ続けて来た日用雑器や甕・鉢・壺に対して寄せられた、民藝運動家の柳宗悦(やなぎむねよし)や外国人陶芸家からの再発見と評価は大きく、素朴な「用の美」に立ち帰った製品に光が当てられるようになりました。

    また、伝統的な登窯の作窯技術が国の無形民俗文化財に選択され、上立杭字赤坂の登窯が兵庫県指定有形民俗文化財に指定されるなど、継承された伝統技法が文化財指定されました。

    現在 21世紀|​​
    個性ある手仕事と伝統の現代的復興 ​ 

    丹波焼の郷の各窯元では、21世紀に入ると、大量生産よりも各窯元の個性や手作りを重視する製品に立ち戻り、民藝の伝統を重じる窯元、伝統を基盤に新たな丹波焼の魅力の発信を模索する窯元、いにしえの古丹波の製法を現代に復興しようとする窯元などが現れ、埦や皿、鉢等の食器、甕・壺、花器が生産されていきました。これらの製品は、やがて産地の主力の焼物となって行きました。 

    日本六古窯が日本遺産に認定

    歴史年表

    平安
    大同元​​年806長門国萩の陶工風呂藪惣太郎(宗太郎/上立杭陶器神社祭神)がこの地に陶法を伝えたという。
    10世紀前後辰巳(丹波篠山市今田町)、上相野・下相野・西相野、花折、等(三田市)に須恵器窯が営まれる
    12世紀末〜13世紀前半丹波焼最古級の窯と目される三本峠窯(武士ケタの山中)が東海地方の製陶法に影響されて築かれ、焼き始められた
    12世紀末瓜蝶鳥刻文壺(石峯寺経塚出土)
    ​​​ヘラ描き刻画による瓜蝶鳥刻文壺や、草花文三耳壺が作られる
    ​鎌倉
    ​​鎌倉期になり三本峠窯跡群に続いて、周辺に源兵衛山、床谷(とこらり)、太郎三郎(たさうら)窯などが築かれ、壺・甕・擂鉢などを焼きはじめる​ 
    文保元年1317​​丹州多紀郡小野原庄内東光寺山境内之事に、「南ハ立杭之上大谷限」と初めて立杭の名が見える(『和田寺文書』)​ 
    室町​
    確かな時期は不明だが、室町期に入って稲荷山窯が築かれ、稲荷山大壺ともいわれる多くの壺をはじめ、蹲・徳利・甕・擂鉢・片口などを焼く
    ​​15世紀中頃〜16世紀後半​独特の「猫掻き」と呼ばれる器面調整法が出現
    桃山
    ​​文禄 3​1594文禄3年記の土取場絵図
    慶長 21597「慶長二年」銘壺「#」の窯印併記
    江戸
    慶長141609天下普請により篠山城の築城
    慶長16頃1611​​釜屋、下立杭、上立杭に朝鮮半島に起源を持つ登窯が築かれ、大量生産が可能となる​
    窯印も小形定型化、肩衝形などの茶器があらわれる
    織田有楽の茶会で「朝 茶入 丹波焼肩つき」使用(『有楽亭茶湯日記』)と、文献に初めて「丹波焼」の名が登場する
    ​​この頃​永井信濃守 古田織部銘「小うた」肩衝茶入を将軍秀忠に献上
    ​​(『伊丹屋宗不筆記』)​
    慶長181613​​「慶長拾八年二月吉日上吉右衛門 源十郎 花押」 銘壺​ 
    ​​元和 4​1618​「上々吉元和四年五月夏吉日」銘赤土部三耳壺​
    ​中期​​大路焼、村森焼、大部谷(おべたに)焼(共に丹波市)始まる​
    ​​元和 6​1620​​元和6年記の土取場古地図あり​
    ​​​元和 101624​​​​「元和十年三月十六日仕候也茶坪五斤入此坪七匁五分也」銘壺 ​ 
    ​​​​「たんはおのはら けんわ十年きのへね つほや久左衛門作」銘灰釉四耳大壺​​ ​ 
    ​「寛永元年亥三月朔日上上吉日立杭村徳左衛門作」銘灰釉四耳壺​
    寛永年中​​小堀遠州の指導による丹波焼茶器(茶碗・茶入・水指・建水等)が作られ「遠州丹波」と呼称される​ 
    ​​特に茶入「生野」が有名​ 
    ​​寛永 8​1631​​小堀遠州「生野」茶入使用 (『遠州道具置合』)​
    ​​寛永15​1638​「寛永十五年九月吉日 喜十郎」銘徳利​
    ​丹波野々村葉茶壺 (『毛吹草』第四巻「諸国名産ノ部」)
    ​​寛永18​1641​丹波焼鉢等 (『毛吹草』)
    ​​寛永19​1642​松平伊豆守信綱丹波焼水指使用(『柳営公式茶事記』)
    ​​正保 3​1646​丹波焼水滴(建水)使用 (『柳営公式茶事記』)​
    ​​承応 2​ 1653​小野原村から分村して 立杭村が成立​
    ​​承応 3​1654​篠山藩が大坂の大津屋源兵衛を座元として丹波焼座方経営を始め、商品の一手販売を請負わせる​
    ​この頃、丹波名産になった朝倉山椒のために丹波焼山椒壷が生産され、金閣寺和尚の日記『隔蓂記』に「煮山椒壱壺」等の記録がみえる​​
    明暦 31657​「明暦三年八月吉日備前国住人源兵衛作之」銘赤土部窯変大徳利​
    万治 11658​「萬治元年九月吉日立杭村八蔵 花押」銘大甕​
    寛文年間篠山城北の御下屋敷に藩主の窯(山内窯)築かれる 
    ​茶碗、茶入、水指、建水等の茶器や壺、鉢を焼いた​​
    ​​天和 1​1681​「天和元年申日 吉兵衛」銘水甕​
    寛永-天和​上相野(鳶ケ尾・釜屋(西・東))、下相野(釜屋)、四ッ辻、田中(西)等に築窯​
    天和 3​1683​「天和三年亥八月吉祥日 摂州四辻村中西七郎兵衛」銘灰釉・赤土部壺​
    貞享 11684​「天和二二(四)年申日 小野原庄上立杭村吉兵衛作」銘壺​
    ​​元禄 6​ 1693​「元禄六年三月吉日 徳左衛門 花押」銘桶​
    元禄 71694​「元禄七年いぬ七月吉日 つほ屋九左衛門」銘湯根​
    元禄 91696​立杭村が、上立杭村・下立杭村に分村(『兵庫県史』)​
    元禄 151702​「元禄十五年九月 日壺屋忠兵衛作」銘二石入藍甕(赤土部刷毛塗)​
    元禄 161703​「立杭村地神酒つほ奉仕吉兵衛 元禄十六年未ノ九月吉日」銘赤土部笹耳壺​
    宝永 31706​元和6年(1620年)「土取場古地図」裏面に宝永3年(1706年)「土取場約定書」が併記される​
    宝永 71710​「上々吉宝永七年五月吉日 つ本屋惣吉作」銘赤土部葉文壺​
    ​正徳年間​​大坂に「丹波すり鉢問屋一軒」​
    享保 21717​丹波焼窯座座元 高砂の柴屋太郎右衛門に代わる​
    享保 81723​「享保八年卯月廿 甚兵衛作」銘甕(印花文あり)​
    ​「享保八年卯三月 日亀山称名寺 壺屋吉兵衛」銘甕​
    享保 151730​丹波焼座方経営藩直営となる​
    享保 171732​再び座方経営を座元請負いにする​
    寛延 11748​篠山藩主に青山氏丹波国亀山から入封​
    宝暦 21752​下立杭中窯・上立杭北窯開窯「宝暦二歳里釜はしめ 壬申正月吉日…」の銘の丹波焼厨子があったとされる​
    天明 41784​丹波の陶工久八 出石窯に呼ばれる(『出石焼窯元古文書』)​
    寛政 81796​色絵薊文蝋燭徳利(旧三田藩主九鬼家伝来「一此」印、寛政八年銘箱書)​
    寛政 101798​下立杭村から釜屋村が分村​
    寛政 111799​三田で京焼陶工欽古堂亀祐を招聘し磁器生産始まる( 三田焼・三田青磁ほか)​
    ​​文化 5​1808​古市焼(磁器)生産始まる「古市村にて陶工相企試焼御聞届之事」(『藩日記』) ​
    文化 121815​古市焼文化十二年銘呉須醤油注​
    文政 11818​丹波焼座方改革 村持座を藩直営とし、篠山商人を焼物売捌役に登用​
    ​文政年間​​初年に篠山の王地山焼(磁器窯)始まる 欽古堂亀祐が指導する​
    文政 111828​鞆(とも)浦(広島県福山市)の保命酒(ほうめいしゅ)徳利「立杭へ要用」​
    文政 131830​座方掛りは郡奉行管轄となり、藩内豪農が御用掛として売捌や経営にあたる​
    弘化 31846​立杭3ヶ村(上立杭・下立杭・釜屋)146戸のうち、陶器製造111戸、仲買人9戸 平均耕地3反7畝​
    嘉永 51852​「上立杭村陶器職所、本窯・北窯御先代ヨリ有之、南窯御当代築、右三筋有之」「下立杭村焼物窯四筋」「釜屋村陶器窯三筋、中窯・南窯・新窯」(『多紀郡明細記』)​
    ​幕末頃
    (1853年〜1868年)​
    ​文政ごろから幕末へかけては、直作・一此(いちこの)・一房・花遊・市作などが活躍。各自精選された釉薬と漉し土で名作(徳利が多い)を作った​
    文久 11861​篠山春日神社能舞台建立 その床下に「下立杭釜屋村源助作」銘大甕を据える​​
    元治 11864​篠山藩窯座制を廃止​
    ​​明治​
    明治 51872​上立杭、下立杭、釜屋 各3窯運営​
    明治 281895​上立杭赤坂に登り窯築窯 (立杭に現存する最古の窯)​
    明治 291896​立杭3ヶ村150戸中130戸が陶業に従事​
    ​​大正​
    大正 21913​篠山今村静斎「篠山焼」始める​
    大正 121924​立杭焼登り窯14 戸数95(『篠山新聞』)​
    ​​大正末​
    昭和
    ​昭和初期
    (1926〜1930年代初頭)​
    ​民芸運動の創始者柳宗悦(むねよし)はじめ、浜田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチ等立杭を訪れ影響を与える​
    昭和 71932​植木鉢の需要高により機械ロクロ導入​
    昭和 121937​丹波陶器工業組合が結成される​
    ​立杭3ヶ村の戸数163のうち陶器製造場数51、江戸末期の頃と比べ半減する​
    昭和 141939​戦時工業用陶器「硫酸瓶」の製造始まる​
    ​​​​​​​第二次世界大戦 始まる
    昭和 201945​「摂丹兵器製作所」が設立され、軍事用陶製地雷薬莢づくりが行われる​
    第二次世界大戦 終結
    昭和 231948​上立杭に県立窯業試験場が設置される​
    ​石膏型製作技術導入​
    昭和 251950​丹波陶器工業組合解散「丹波陶磁器工業協同組合」と「丹波陶器協同組合」に分かれたが、同年統一されて丹波陶磁器協同組合を設立 組合員数42人​
    昭和 261951​陶製酒樽を開発 後年業界生産額の過半を占める​
    昭和 281953​京都大学人文科学研究所による丹波立杭窯の学問的研究調査実施​
    昭和 301955​立杭窯の研究 「技術・生活・人間」(京都大学人文科学研究所研究報告:藪内清編)発刊​
    昭和 321957​丹波立杭窯(作窯技法)が国の無形文化財に指定(選択)される​
    昭和 351960​町制施行により今田村が「今田町」になる​
    昭和 381963​組合坏土工場建設 原料土共同購入、陶土の一括精製始まる​
    昭和 401965​陶芸家グループ「彩炎」結成​
    昭和 431968​県立窯業指導所が廃止される​
    ​中堅陶芸家グループ「丹波陶友会」結成​
    昭和 441969​窯業指導所跡地に町立丹波焼陶芸会館設置​
    昭和 461971​下立杭武士ケタの丹波焼古窯跡(源兵衛山古窯跡)が県の指定文化財(史跡)になる​
    昭和 481973​上立杭赤坂の丹波立杭登窯が、県指定文化財(重要有形民俗文化財)に指定される​
    昭和 521977​県道改良工事により三本峠北窯の灰原が見つかり、兵庫県教育委員会によって発掘調査を実施。鎌倉時代前期の甕や刻画文陶器(模様のある陶片)が出土する​
    ​若手陶芸家グループ「グループ窯」結成​
    昭和 531978​「丹波立杭焼」が国の伝統的工芸品に指定される​
    ​第1回伝統工芸士認定​
    ​陶器市開催 翌年からは「丹波立杭焼陶器まつり」として毎年開催されることとなる​
    昭和 601985​丹波伝統工芸公園完成「立杭陶(すえ)の郷(さと)」と名付け開園​
    ​丹波陶磁器協同組合が「丹波立杭陶磁器協同組合」と改称 組合員数56人​
    昭和 631988​陶の郷内に観光物産センター完成 組合陶器即売場・陶芸教室を開設​
    ​ホロンピア88(北摂丹波の祭典)陶の郷会場で「大丹波焼展と現在に生きる六古窯展」開催​
    ​今田町において「日本六古窯サミット」開催​
    平成
    平成 61994​組合坏土工場改築 陶土精製設備改善​
    平成 111999​篠山・西紀・丹南・今田4町合併による「篠山市」発足​
    平成 122000​組合設立50周年記念事業実施​
    平成 172005​7月陶の郷即売場増改築『窯元横丁』としてオープンする​
    平成 172005​10月虚空蔵山中腹に県立『兵庫陶芸美術館』が開館​
    平成 222010​3月上立杭地区が県より『歴史的景観形成地区』の指定を受ける​
    平成 292017​丹波焼含む日本六古窯が日本遺産の認定を受ける​
    平成 302018​「丹波焼」で地域団体商標登録​
    平成 302018​組合坏土工場 陶土精製設備改善​
    令和
    令和元年2019​市名を「丹波篠山市」に改名​
    令和 42022​丹波焼の里 クリエイティブバレー構想を策定する​
    令和 52023​文化庁の文化観光推進法に基づく拠点計画に認定を受ける​
    ​5ヶ年事業に着手する​
    令和 62024​4月陶の郷即売場『窯元横丁』リニューアルオープン​
    令和 72025​​CREATIVE TOURISM AWARDS 2025 WORLD BEST CREATIVE JOURNEY受賞​ 
    令和 72025​3月丹波焼インフォメーションセンター「kamanjyo(かまんじょ)」を開設​
    令和 82026​伝習会館を改修 1階の企画展示を一新し、2階にカフェスタンドとキッズスペースを整備 「TAMBA GATEWAY CENTER」としてリニューアルオープンする​
    令和 92027伝産会館​​を改修する​
    ​​平安​
    大同元年 806
    ​長門国萩の陶工風呂藪惣太郎(宗太郎/上立杭陶器神社祭神)がこの地に陶法を伝えたという。 ​
    ​​10世紀前後​
    ​辰巳(丹波篠山市今田町)、上相野・下相野・西相野、花折、等(三田市)に須恵器窯が営まれる​​
    ​12世紀末〜13世紀前半​
    ​丹波焼最古級の窯と目される三本峠窯(武士ケタの山中)が東海地方の製陶法に影響されて築かれ、焼き始められた​
    ​​12世紀末 
    ​瓜蝶鳥刻文壺(石峯寺経塚出土) ​
    ​​​ヘラ描き刻画による瓜蝶鳥刻文壺や、草花文三耳壺が作られる​​
    ​​鎌倉​
    ​鎌倉期になり三本峠窯跡群に続いて、周辺に源兵衛山、床谷(とこらり)、太郎三郎(たさうら)窯などが築かれ、壺・甕・擂鉢などを焼きはじめる​
    文保元年 1317
    ​丹州多紀郡小野原庄内東光寺山境内之事に、「南ハ立杭之上大谷限」と初めて立杭の名が見える(『和田寺文書』)​
    室町
    ​確かな時期は不明だが、室町期に入って稲荷山窯が築かれ、稲荷山大壺ともいわれる多くの壺をはじめ、蹲・徳利・甕・擂鉢・片口などを焼く​
    ​15世紀中頃〜16世紀後半​
    ​独特の「猫掻き」と呼ばれる器面調整法が出現​
    桃山
    ​​文禄 3​ 1594
    ​文禄3年記の土取場絵図​
    ​​慶長 2​ 1597
    ​「慶長二年」銘壺「#」の窯印併記​
    江戸​
    ​慶長 14 1609
    ​天下普請により篠山城の築城​
    慶長 16頃 1611
    ​釜屋、下立杭、上立杭に朝鮮半島に起源を持つ登窯が築かれ、大量生産が可能となる​
    ​窯印も小形定型化、肩衝形などの茶器があらわれる​
    ​織田有楽の茶会で「朝 茶入 丹波焼肩つき」使用(『有楽亭茶湯日記』)と、文献に初めて「丹波焼」の名が登場する​​
    この頃
    ​永井信濃守 古田織部銘「小うた」肩衝茶入を将軍秀忠に献上​
    ​(『伊丹屋宗不筆記』)​
    慶長 18 1613
    ​「慶長拾八年二月吉日上吉右衛門 源十郎 花押」 銘壺​
    元和 4 1618
    ​「上々吉元和四年五月夏吉日」銘赤土部三耳壺​
    ​​中期​
    ​大路焼、村森焼、大部谷(おべたに)焼(共に丹波市)始まる​
    元和 6 1620
    ​元和6年記の土取場古地図あり​
    元和 10 1624
    ​​​​「元和十年三月十六日仕候也茶坪五斤入此坪七匁五分也」銘壺 ​ 
    ​​​​「たんはおのはら けんわ十年きのへね つほや久左衛門作」銘灰釉四耳大壺​​ ​ 
    ​「寛永元年亥三月朔日上上吉日立杭村徳左衛門作」銘灰釉四耳壺​
    ​寛永年中​
    ​​小堀遠州の指導による丹波焼茶器(茶碗・茶入・水指・建水等)が作られ「遠州丹波」と呼称される​ 
    ​​特に茶入「生野」が有名​ 
    寛永 8 1631
    ​小堀遠州「生野」茶入使用 (『遠州道具置合』)​
    寛永 15 1638
    ​「寛永十五年九月吉日 喜十郎」銘徳利​
    ​丹波野々村葉茶壺 (『毛吹草』第四巻「諸国名産ノ部」)​
    寛永 18 1641
    ​丹波焼鉢等 (『毛吹草』)​
    寛永 19 1642
    ​松平伊豆守信綱丹波焼水指使用(『柳営公式茶事記』)​
    正保 3 1646
    ​丹波焼水滴(建水)使用 (『柳営公式茶事記』)​
    承応 2 1653
    ​小野原村から分村して 立杭村が成立​
    承応 3 1654
    ​篠山藩が大坂の大津屋源兵衛を座元として丹波焼座方経営を始め、商品の一手販売を請負わせる​
    ​この頃、丹波名産になった朝倉山椒のために丹波焼山椒壷が生産され、金閣寺和尚の日記『隔蓂記』に「煮山椒壱壺」等の記録がみえる​​
    明暦 3 1657
    ​「明暦三年八月吉日備前国住人源兵衛作之」銘赤土部窯変大徳利​
    万治 1 1658
    ​「萬治元年九月吉日立杭村八蔵 花押」銘大甕​
    ​寛文年間​
    ​篠山城北の御下屋敷に藩主の窯(山内窯)築かれる 
    ​茶碗、茶入、水指、建水等の茶器や壺、鉢を焼いた​​
    天和 1 1681
    ​「天和元年申日 吉兵衛」銘水甕​
    ​寛永-天和​
    ​上相野(鳶ケ尾・釜屋(西・東))、下相野(釜屋)、四ッ辻、田中(西)等に築窯​
    天和 3 1683
    ​「天和三年亥八月吉祥日 摂州四辻村中西七郎兵衛」銘灰釉・赤土部壺​
    貞享 1 1684
    ​「天和二二(四)年申日 小野原庄上立杭村吉兵衛作」銘壺​
    元禄 6 1693
    ​「元禄六年三月吉日 徳左衛門 花押」銘桶​
    元禄 7 1694
    ​「元禄七年いぬ七月吉日 つほ屋九左衛門」銘湯根​
    元禄 9 1696
    ​立杭村が、上立杭村・下立杭村に分村(『兵庫県史』)​
    元禄 15 1702
    ​「元禄十五年九月 日壺屋忠兵衛作」銘二石入藍甕(赤土部刷毛塗)​
    元禄 16 1703
    ​「立杭村地神酒つほ奉仕吉兵衛 元禄十六年未ノ九月吉日」銘赤土部笹耳壺​
    宝永 3 1706
    ​元和6年(1620年)「土取場古地図」裏面に宝永3年(1706年)「土取場約定書」が併記される
    宝永 7 1710
    ​「上々吉宝永七年五月吉日 つ本屋惣吉作」銘赤土部葉文壺​
    ​​正徳年間​
    ​大坂に「丹波すり鉢問屋一軒」​
    享保 2 1717
    ​丹波焼窯座座元 高砂の柴屋太郎右衛門に代わる​
    享保 8 1723
    ​「享保八年卯月廿 甚兵衛作」銘甕(印花文あり)​
    ​「享保八年卯三月 日亀山称名寺 壺屋吉兵衛」銘甕​
    享保 15 1730
    ​丹波焼座方経営藩直営となる​
    享保 17 1732
    ​再び座方経営を座元請負いにする​
    寛延 1 1748
    ​篠山藩主に青山氏丹波国亀山から入封​
    宝暦 2 1752
    ​下立杭中窯・上立杭北窯開窯「宝暦二歳里釜はしめ 壬申正月吉日…」の銘の丹波焼厨子があったとされる​
    天明 4 1784
    ​丹波の陶工久八 出石窯に呼ばれる(『出石焼窯元古文書』)​
    寛政 8 1796
    ​色絵薊文蝋燭徳利(旧三田藩主九鬼家伝来「一此」印、寛政八年銘箱書)​
    寛政 10 1798
    ​下立杭村から釜屋村が分村​
    寛政 11 1799
    ​三田で京焼陶工欽古堂亀祐を招聘し磁器生産始まる( 三田焼・三田青磁ほか)​
    文化 5 1808
    ​古市焼(磁器)生産始まる「古市村にて陶工相企試焼御聞届之事」(『藩日記』) ​
    文化 12 1815
    ​古市焼文化十二年銘呉須醤油注​
    文政 1 1818
    ​丹波焼座方改革 村持座を藩直営とし、篠山商人を焼物売捌役に登用​
    ​​文政年間​
    ​初年に篠山の王地山焼(磁器窯)始まる 欽古堂亀祐が指導する​
    文政 11 1828
    ​鞆(とも)浦(広島県福山市)の保命酒(ほうめいしゅ)徳利「立杭へ要用」​
    文政 13 1830
    ​座方掛りは郡奉行管轄となり、藩内豪農が御用掛として売捌や経営にあたる​
    弘化 3 1846
    ​立杭3ヶ村(上立杭・下立杭・釜屋)146戸のうち、陶器製造111戸、仲買人9戸 平均耕地3反7畝​
    嘉永 5 1852
    ​「上立杭村陶器職所、本窯・北窯御先代ヨリ有之、南窯御当代築、右三筋有之」「下立杭村焼物窯四筋」「釜屋村陶器窯三筋、中窯・南窯・新窯」(『多紀郡明細記』)​
    幕末頃(1853年〜1868年)
    ​文政ごろから幕末へかけては、直作・一此(いちこの)・一房・花遊・市作などが活躍。各自精選された釉薬と漉し土で名作(徳利が多い)を作った​
    文久 1 1861
    ​篠山春日神社能舞台建立 その床下に「下立杭釜屋村源助作」銘大甕を据える​​
    元治 1 1864
    ​篠山藩窯座制を廃止​
    ​​明治​
    明治 5 1872
    ​上立杭、下立杭、釜屋 各3窯運営​
    明治 28 1895
    ​上立杭赤坂に登り窯築窯 (立杭に現存する最古の窯)​
    明治 29 1896
    ​立杭3ヶ村150戸中130戸が陶業に従事​
    大正
    大正 2 1913
    ​篠山今村静斎「篠山焼」始める​
    大正 12 1924
    ​立杭焼登り窯14 戸数95(『篠山新聞』)​
    ​​大正末​
    昭和​
    ​昭和初期(1926〜1930年代初頭)​
    ​民芸運動の創始者柳宗悦(むねよし)はじめ、浜田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチ等立杭を訪れ影響を与える​
    昭和 7 1932
    ​植木鉢の需要高により機械ロクロ導入​
    昭和 12 1937
    ​丹波陶器工業組合が結成される​
    ​立杭3ヶ村の戸数163のうち陶器製造場数51、江戸末期の頃と比べ半減する​
    昭和 14 1939
    ​戦時工業用陶器「硫酸瓶」の製造始まる​
    第二次世界大戦 始まる
    昭和 20 1945
    ​「摂丹兵器製作所」が設立され、軍事用陶製地雷薬莢づくりが行われる​
    二次世界大戦 終結
    昭和 23 1948
    ​上立杭に県立窯業試験場が設置される​
    ​石膏型製作技術導入​
    昭和 25 1950
    ​丹波陶器工業組合解散「丹波陶磁器工業協同組合」と「丹波陶器協同組合」に分かれたが、同年統一されて丹波陶磁器協同組合を設立 組合員数42人​
    昭和 26 1951
    ​陶製酒樽を開発 後年業界生産額の過半を占める​
    昭和 28 1953
    ​京都大学人文科学研究所による丹波立杭窯の学問的研究調査実施​
    昭和 30 1955
    ​立杭窯の研究 「技術・生活・人間」(京都大学人文科学研究所研究報告:藪内清編)発刊​
    昭和 32 1957
    ​丹波立杭窯(作窯技法)が国の無形文化財に指定(選択)される​
    昭和 35 1960
    ​町制施行により今田村が「今田町」になる​
    昭和 38 1963
    ​組合坏土工場建設 原料土共同購入、陶土の一括精製始まる​
    昭和40 1965
    ​陶芸家グループ「彩炎」結成​
    昭和 43 1968
    ​県立窯業指導所が廃止される​
    ​中堅陶芸家グループ「丹波陶友会」結成​
    昭和 44 1969
    ​窯業指導所跡地に町立丹波焼陶芸会館設置​
    昭和 46 1971
    ​下立杭武士ケタの丹波焼古窯跡(源兵衛山古窯跡)が県の指定文化財(史跡)になる​
    昭和 48 1973
    ​上立杭赤坂の丹波立杭登窯が、県指定文化財(重要有形民俗文化財)に指定される​
    昭和 52 1977
    ​県道改良工事により三本峠北窯の灰原が見つかり、兵庫県教育委員会によって発掘調査を実施。鎌倉時代前期の甕や刻画文陶器(模様のある陶片)が出土する​
    ​若手陶芸家グループ「グループ窯」結成​
    昭和 53 1978
    ​「丹波立杭焼」が国の伝統的工芸品に指定される​
    ​第1回伝統工芸士認定​
    ​陶器市開催 翌年からは「丹波立杭焼陶器まつり」として毎年開催されることとなる​
    昭和 60 1985
    ​丹波伝統工芸公園完成「立杭陶(すえ)の郷(さと)」と名付け開園​
    ​丹波陶磁器協同組合が「丹波立杭陶磁器協同組合」と改称 組合員数56人​
    昭和 63 1988
    ​陶の郷内に観光物産センター完成 組合陶器即売場・陶芸教室を開設​
    ​ホロンピア88(北摂丹波の祭典)陶の郷会場で「大丹波焼展と現在に生きる六古窯展」開催​
    ​今田町において「日本六古窯サミット」開催​
    平成
    平成 6 1994
    ​組合坏土工場改築 陶土精製設備改善​
    平成 11 1999
    ​篠山・西紀・丹南・今田4町合併による「篠山市」発足​
    平成 12 2000
    ​組合設立50周年記念事業実施​
    平成 17 2005
    ​7月陶の郷即売場増改築『窯元横丁』としてオープンする​
    平成 17 2005
    ​10月虚空蔵山中腹に県立『兵庫陶芸美術館』が開館​
    平成 22 2010
    ​3月上立杭地区が県より『歴史的景観形成地区』の指定を受ける​
    平成 29 2017
    ​丹波焼含む日本六古窯が日本遺産の認定を受ける​
    平成 30 2018
    ​「丹波焼」で地域団体商標登録​
    平成 30 2018
    ​組合坏土工場 陶土精製設備改善​
    令和
    令和元年 2019
    ​市名を「丹波篠山市」に改名​
    令和 4 2022
    ​丹波焼の里 クリエイティブバレー構想を策定する​​
    令和 5 2023
    ​​文化庁の文化観光推進法に基づく拠点計画に認定を受ける​ 
    ​​5ヶ年事業に着手する​ 
    令和 6 2024
    ​4月陶の郷即売場『窯元横丁』リニューアルオープン​
    令和 7 2025
    ​CREATIVE TOURISM AWARDS 2025 WORLD BEST CREATIVE JOURNEY受賞​
    令和 7 2025
    ​3月丹波焼インフォメーションセンター「kamanjyo(かまんじょ)」を開設​
    令和 8 2026
    ​伝習会館を改修 1階の企画展示を一新し、2階にカフェスタンドとキッズスペースを整備 「TAMBA GATEWAY CENTER」としてリニューアルオープンする​
    令和 9 2027
    伝産会館​​を改修する​

    ​- 特徴 -​
    丹波焼ができるまで

    丹波焼とは

    丹波焼は、平安時代末期からおよそ850年以上続く、兵庫県丹波篠山市の立杭地区を中心に作られる日本の伝統的な陶器です。瀬戸、常滑、信楽、備前、越前とともに「日本六古窯」の一つに数えられ、日本遺産に認定されています。谷間の地形を活かした「穴窯」や「登り窯」で薪を焚いて焼成することで、灰が溶けて生まれる、美しく唯一無二の自然釉の景色が一つの特徴としてあげられます。また、一つの技法や造形にとらわれず、時代が必要とする様々な生活容器を作り続けてきたため、年代によって特徴が異なることも魅力の一つです。かつての主力は、壺や甕(かめ)・すり鉢など、江戸時代(17世紀頃)からは茶入・水指・茶碗など茶器類に多くの名器を生み、江戸時代後半には篠山藩の保護育成により、直作(なおさく)、一房(いちふさ)、花遊(かゆう)、一此(いちこの)等の名工が腕を競って、丹波焼の名を高めました。​ 

    明治時代(​​1868以降​​)には、酒や醤油の一升徳利、昭和初期(1926以降)には植木鉢を中心に生産。戦時中(1939頃より)には硫酸瓶、戦後(1945以降)は不足していた日用雑器、現代では食器・花器等の生活用具を中心に、茶道具、花器など幅広い作品が作られ、素朴な実用性と芸術性を兼ね備えています。 17世紀の登り窯導入と同時期に、取り入れられた「蹴りロクロ(日本では右回転が多い中、立杭は独特の左回転ロクロ)」といった独特の技術も現代に継承されています。

    名称については、穴窯時代は「小野原焼」とも呼ばれました。登り窯時代になってからは、「丹波焼」又は「立杭焼」と呼ばれてきましたが、昭和53年(1978)「丹波立杭焼」の名称で国の伝統的工芸品指定を受けています。 

    生活用器づくりに徹する

    窯が開かれてからおよそ850年、丹波焼は一貫して日用雑器を主体に今日まで焼き続けており、灰釉や鉄釉などによる素朴で飾り気がなく野趣味たっぷりな湯呑・皿・鉢・徳利・ぐい呑・壺・花瓶など「生活用器」の生産を身上としています。

    穴窯時代(12世紀末頃〜16世紀)

    ​穴窯時代のやきものは、紐(ひも)づくりロクロ仕上げで、人工的な釉薬(ゆうやく)は使われず、穴窯の中で長時間焼かれることにより、燃えた薪の灰が焼成中に器に降りかかって、原土の中に含まれた鉄分と融け合い、緑色や鳶(とび)色を自然発色しました。これが自然釉(ビードロ釉)といわれるもので、穴窯時代丹波焼の特徴となっています。​ 

    窯変美の魅力

    17世紀になって登場した登り窯による焼成は約60時間続き、最高温度は1300度に達します。その結果、燃料である松薪の灰が器の上に降りかかり、釉薬と融け合ったり、炎の当たり具合で窯変するもの、「灰被り(はいかぶり)」と呼ばれるもの等、魅力的な色や模様が一品ずつ異なって表れるのが丹波焼の大きな特徴となりました。そのため観賞用としても愛陶家に広く知れ渡ることになります。丹波焼の真骨頂は、この作品の焼肌に馴れ親しむほど、さらに色合いや模様が変化し趣を変えることなのかもしれません。​ 

    ​丹波焼のできるまで

    1.採土

    ​​丹波焼の陶土(原土)は、立杭から半径約15km県内にある四ッ辻粘土(三田市四ッ辻の山土)や弁天黒土(JR篠山口駅周辺の田土)を採土して使用しています。
    その昔は、三田市本庄や相野・藍本周辺でも山土を採土していた様子が、絵図に残っています​。​ 

    2. 水簸(すいひ)

    かつては窯元各家の土こし場で原料土を精製する作業が行われていました。
    現在は組合の坏土工場で、四ッ辻粘土、弁天(べんてん)黒土、木節(きぶし)粘土、長石(ちょうせき)を一定の割合で水を加えミルですりつぶし、こし網を通して不純物を取り除き、水簸槽(すいひそう)に浸します。​ 

    3.坏土(はいど)

    ​​水簸槽に沈殿した粘土を攪拌(かくはん)しながら、ポンプで汲み上げ、プレスで余分な水分を脱水し、適当な固さの坏土を完成させます。​ 

    4. 土もみ

    ​​工場から持ち帰った坏土は、土練機に入れてよく練り上げ、粒子の粗密を均一にし、水分の濃密度を平均化します。
    それをさらに手練り(ねじもみ又は菊もみという。)で粘土内の空気を抜き、気泡を完全になくするため、丹念に土を練ります。
    この工程を十分にしないと、焼成した時ゆがみ、ヒビ割れ、ふくれ等を生ずる原因になります。​ 

    5. 成形​

    ​​形状・種類によりいろいろな成形方法が行われます。円形状のものは、ロクロ成形により作られます。
    現在の丹波立杭ではロクロ成形が中心で、足で蹴る蹴(け)りロクロや電動ロクロが使われています。丹波焼のロクロの回転は左回りが特徴です。​
    角形や置物などの型の複雑なものは、必要な器の石膏(せっこう)型を作り、その中へ粘土を泥状にしたものを流し込む鋳込(いこ)み成形で作られます。
    その他にたたら・押型・型おこし・手びねり成形などがあります。​ 

    6. 削り​

    ​ある程度粘性の残っている間に、おび鉄、竹カンナなどを使い、高台(こうだい)削り、外側の削り、縁仕上げなどの細かい仕上げが行われます。
    急須(きゅうす)のつまみや、香炉(こうろ)の足付けなどもこの時に行います。​

    7. 乾燥

    ​天日で3〜4日乾燥します。 窯の余熱を利用して乾燥することもあります。​

    8. 素焼き

    ​​十分に乾燥させた後、750℃〜900℃で一度焼成します。​
    これは本焼きの釉薬が素地(きじ)によく掛かるようにするために行います。​ 

    9. 釉掛け(くすりかけ)

    ​素焼きした後、釉薬(うわぐすり)を掛けます。主な釉薬は灰釉、土灰釉、鉄釉(黒釉)、白釉などです。この方法の他に、生掛けといい、成形の後、生乾きの生地に釉薬を掛ける場合もあります。​

    10. 窯詰め

    ​釉薬(うわぐすり)を掛けた製品を窯に詰めます。釉薬を掛けずに焼き締めるものもあります。​

    11. 本焼き

    ​窯に薪(主に松の木)を焼(く)べ、数日かけて、1250℃〜1300℃の温度で焼成します。現在ではガス窯、電気窯も併用しています。​

    12. 窯出し

    ​焼成後数日おいて製品を冷まし、窯出し(焼成品の取りだし)します。その後、製品検査の後出荷します。​

    ​- 丹波焼の技術 –

    ​- 丹波焼の技術 –

    陶土

    陶土は、立杭から半径約15km県内にある四ッ辻粘土(三田市四ッ辻の山土)、弁天黒土(JR篠山口駅周辺の田土)又はこれらと同じ材質のものを使用します。
    丹波焼の陶土として、伝統的に使用されている原土は山土と田土ですが、このうち古来主体として用いられてきたのは山土で、穴窯時代では窯の周辺の土を使用し、その後は三田市の本庄や相野、藍本周辺の土が使用されていました。
    田土の使用は登り窯時代に入った江戸時代(17世紀)の初めごろからといわれています。
    原土の採取地(土取場)は時代が進むとともに移動し、穴窯時代(12世紀末頃〜16世紀)は窯場周辺の山から、大量生産が行われるようになる登り窯時代に入るころからは、原土を他地に求めるようになりました。

    山土

    兵庫県三田市上相野・下相野・西相野、藍本、東本庄、周辺一帯の広範囲の土取場から採取され、現在は三田市四ッ辻の山土が使用されています。

    田土

    当初兵庫県三田市藍本周辺から採取されましたが、次第に北部に移動し、丹波篠山市の古市を経て弁天(現:丹波篠山市丹南地区)の田土が主に使用されるようになり、現在に至っています。採掘は、いずれも露天掘りで、以前は持ち帰った原土を各窯元ごとに、篩(ふる)い・水簸(すいひ(土こし))による精製を行い陶土に仕上げていましたので、陶土の精製は、陶器生産の約半分の手間を要する難作業でしたが、昭和38年(1963)組合経営の坏土工場が稼働するようになってからは、個々の窯元では行われなくなりました。

    成形

    成形は、ロクロ成形(円形状のもの)が中心ですが、他に角形や置物などの形の複雑なものは、鋳(い)込み成形(石膏(せっこう)型による)が行われ、その他たたら、手ひねり、押型成形等も用いられています。
    いずれも一品ごとに台の上に取って仕上げる「一品造り」が基本です。​ 

    文様・装飾

    文様・装飾は、古来さまざまな種類の技法が用いられてきましたが、現在に伝えられている丹波焼独特のものとして、葉文・貼り付け・釘彫り・流し釉・墨流し・人形手・筒描き(イッチン描き)等があります。

    葉文(葉形)

    葉文は、成形された生地が乾燥しないうちに植物の葉を貼り付け、上から釉薬(うわぐすり)をかけて焼成すると、葉の部分が燃えてその形が残る文様です。これに用いられる葉の種類は多く、イチジク・ヤツデ・セリ・カタバミ・カエデ・シダ・ツタ・ナンテンなど、大きいものから小さいものまでさまざまであり、丹波焼の最も独創的な文様の一つになっています。

    ​貼り付け

    成形後、生地が乾燥しないうちに紐状にした粘土を貼り付ける手法で、友土(ともつち)とよぶ同じ土のほか、白土などを用います。葉文とともに丹波焼独特の装飾技法です。江戸時代初期(17世紀頃)の広口の甕に多く見られる技法として、蓮の花・松・梅・柳・柿などの植物文様、魚・鹿などの動物文様に、山・水・花・風などの文字が組み合わされて、表面が装飾されています。江戸時代中期に入るとヘソ徳利に、明治期になると植木鉢の唐草文などにこの技法が残されています。

    釘彫り

    先端をとがらせた竹や木で生地の表面に文様などを彫り込む技法で、江戸時代中期の作品に多く見られます。釉薬(うわぐすり)を生掛けした後、花などの文様を彫り、生地の色と釉薬との配色美を出す方法のほか、釘彫りした後釉薬を掛けるという逆の方法も行われています。この釘彫りも丹波焼の典型的な技法です。

    流し釉

    丹波焼の釉薬は、自然釉から創造された灰釉と、塗土を目的とした土部(どべ)釉が基本となっています。
    この2種類の釉薬は、それぞれ単独で使用されていましたが、その後赤土部釉を全面掛けして地釉とし、その上から灰釉を流して装飾する技法が考案されました。これが流し釉(ぐすり)とよぶ技法で、ロクロをゆっくり回転させながら杓(しゃく)を用いて釉薬を流し掛けしたり、釉薬を入れた竹筒を用いて一定間隔に流し掛けるものです。
    こうして、上から直線的に流し掛けるほか、飛び掛けと称して下から逆に流す方法もあります。

    墨流し

    水面に落とした墨汁が広がっていくときにできる文様に似ているところから、墨流しとよばれるようになった技法です。白色の化粧釉が乾燥しないうちに鉄釉をその上に落とし、上下左右に振り動かすと、さまざまな文様が生まれます。この装飾技法は、江戸時代の後期ごろから用いられるようになりました。​ 

    人形手

    丹波焼における人形手は、大黒や布袋等の神や人物像、菊・唐花などを型で作り、それを徳利の中央部に貼り付けたもので、別名「へそ徳利」とよばれるものは、中央部の貼り付けが凹んでいるからです。

    筒描き(イッチン描き)

    釉薬によって文字や絵・線を描く技法の一つに筒描きがあります。竹筒の下部にあけた穴に細かい竹筒を差し込んで管とした道具に入れた釉薬が、管の先から流れ出すのを利用して描く技法です。江戸時代(17世紀頃)から全国的にみられた技法ですが、丹波焼がその代表といわれています。釉薬が流れ出す管先をさらに細くするために金具をつける方法もとられ、この方法によって一升徳利などに酒の銘柄や店の屋号などを描きました。
    もう一つの方法は、渋紙をジョウゴ状にして先に金具を取り付けた道具に釉薬を入れ、指で釉薬を押し出しながら絵や文字を描く技法です。この道具は、もと染色の道具であったものを転用したもので、「イッチン」とよばれ、これを用いる技法をイッチン描きとよびました。細かい絵や文字を描くのに用いられてきましたが、現在ではゴム製のスポイトが用いられるようになっています。​ 

    面取り

    器の面を平面にする方法で、丹波焼の代表的な作品の一つである山椒壺等にこの技法が用いられています。

    しのぎ

    特殊なカンナとよばれる工具を使用して器の表面を削り、模様を施す技法です。

    釉薬(うわぐすり)

    丹波焼の釉薬(うわぐすり)は、登り窯時代に入って自然釉にヒントを得て考案された人工釉の灰釉が主に用いられ、木灰釉を中心に、ワラ灰、モミガラ灰、栗のイガ灰、竹の葉灰などさまざまなものが使用されており、現在も釉薬の主流を占めています。
    その他土灰釉・鉄釉(黒釉)・白釉なども使用されています。

    自然釉(ビードロ釉)

    穴窯時代は無釉で、焼成過程において燃料の松灰と原土中の鉄分とが融合して、緑色や鳶(とび)色を自然発色しました。 これが自然釉といわれるもので、穴窯時代(12世紀末頃〜16世紀)の丹波焼の特徴です。

    灰釉(はいぐすり・かいゆう)

    登り窯時代(17世紀)に入って、自然釉にヒントを得た人工釉が考案されました。これが木灰釉で、これと黄土を調合して作った釉薬も用いられました。その後ワラ灰・モミガラ灰・栗のイガ灰・竹の葉灰などさまざまなものが使用され、現在も灰釉は丹波焼の代表的な釉薬とされています。

    土灰釉(どばいゆう)

    江戸時代末期(19世紀中頃)ごろから使用されはじめた釉薬で、雑木の灰をアク抜きした後、水簸(すいひ)して使用します。

    赤土部釉(あかどべゆう)

    土部釉は、もともと製品の水漏れ防止のために用いられていましたが、焼成過程において朱赤色や紫赤色に変化することから赤土部釉とよばれ、江戸時代初期(17世紀頃)、丹波焼を代表する釉薬として壺や甕などに盛んに用いられました。

    ​​​鉄釉(てつゆう)

    鉄分を含む赤土部を精製して作り出した釉薬です。釉薬の濃淡や焼成具合によって、狐色のほか、栗皮色、光沢のある濃い黒色などさまざまな色に発色する特色のある釉薬です。

    白釉(はくゆう)​

    白土部ともいえる白土を水に溶かして作った白泥の釉薬で、江戸時代後期(18世紀後半頃)に使われはじめ、化粧用のうわぐすりに用いられたほか、筒描きやイッチン描きによる文字や絵の白描きとしても使用されました。

    マンガン​​・飴黒(あめぐろ)

    現在よく使われる釉薬に​マンガン釉があります。​​灰釉の黒よりも漆黒で光沢があり、マンガンを用いた黒釉は、鉢や壺の流し掛けに用いられます。

    来待(キマチ)

    かつて、大量生産されてきた硫酸瓶や甕類によく用いられていました。現在も、ドブ浸け(ベタ掛け・全面塗り)専門の釉薬として使用されてます。​ 

    焼成​

    焼成は、登り窯・穴窯・ガス窯・電気窯等で行われますが、釉掛けしない「焼締め」の場合は、登り窯、穴窯により焼成します。