展示「The Living Spiral」解説

開館時間

10:00~17:00(入館は16:30まで)

休館日

年末年始(12月29日-1月1日)
毎週火曜日(祝日は営業)

会場

TAMBA GATEWAY CENTER テーマ展示室

問い合わせ

丹波伝統工芸公園 立杭陶の郷
〒669-2135 兵庫県丹波篠山市今田町上立杭3

TEL

079-597-2034

入場料金

テーマ展示室「生きた螺旋 The Living Spiral」観覧料
一般 500円(20名以上は団体料金 400円)
小中学生 120円(団体料金の設定は無し)
未就学児は無料
※障がい者は半額(一般250円、小中学生60円)介助者も適用
※兵庫陶芸美術館との共通券もあり
※特別割引 400円(共通券も400円)

展示コンセプト

回転するろくろと陶工の手によって、螺旋を描きながら、広がったり、すぼまったりして自在に形を変えていく陶土。まるで生きもののようなその動きは、外からの力と内なる意志とのせめぎ合いに満ちています。

日本の六古窯の一つとして、約850年続く丹波焼もまた、時代と社会による螺旋運動の中で、さまざまに姿を変えてきました。山中に築かれた穴窯で、東海地方の影響を感じさせる甕(ルビ:かめ)や壺、鉢が焼かれ始めた平安時代末期。耕作地に乏しいこの地で始まった窯業は、徐々に丹波特有の作風を生み出し、里には「半農半陶」の暮らしが根づきました。

そして江戸時代に入ると、朝鮮半島から由来したとされる登り窯がイノベーションをもたらします。人工釉も導入され、焼きものの形状や意匠のバリエーションは、飛躍的な発展を遂げました。そこには、さまざまな消費地のつかい手から寄せられる要望に応えようとした、陶工たちの創意工夫やチャレンジ精神が見てとれます。

その後、時代が変わっても、人の手による小規模な家内制手工業を続けてきた丹波立杭(ルビ:たちくい)の里。ここでは、集落や家族の暮らしの風景にいつも「焼きもの」があり、数百年前の先祖たちの営みが地続きに感じられます。そんな中、現代の陶工たちもまた、絶えず内なる螺旋運動に触発されているといえるでしょう。先人たちに対する敬意と、その功績に負けじと立ち上がる反骨心。共鳴と反発という一見相反するエネルギーが渦を巻いて、多様性を生み出していく丹波焼。

本展は、そんな丹波焼の世界を、「継承・融合・展開に見る、現代陶工の仕事」、「音と映像を通して感じる、作陶のある環境」、「考古資料や伝承から考える、越境的受容の歴史」という3テーマでご案内します。

オーディオガイド1

展示コンセプト

テーマ展示室 会場マップ

テーマ展示室は有料展示となります

INDEX

A Ⅰ.

継承

A Ⅱ.

融合

A Ⅲ.

展開

B.

生活と作陶

C.

TAMBA Co-Temporary

D.

The Living Spiral Tile Art

A Ⅰ

現代陶工の仕事エリア

継承

変遷する時代と社会の中で、さまざまに姿を変えて伝統をつないできた丹波焼。しかし一方で、何百年経っても変わらないものがあります。それが「窯と向き合い、焼く」という行為。それはまるで、止むことのない螺旋運動の中心にあって、過去から未来へぶれることなく直進を続ける一本の線のようなものです。

中世に丹波焼の始まりを告げた穴窯。近世に導入され、百花繚乱のものづくりを生んだ登り窯。その後、戦後に導入されたガス窯、灯油窯や電気窯。それらの技術革新は、人間によるコントロール可能な領域を増やしましたが、それでもなお、窯の中で起きる変化を、完全に先読みすることはできません。

あれこれと思いを巡らせながら土を練り、細心の注意を払ってつくり上げた渾身の造形を、最後は火に委ねるしかないということ。最善を尽くした窯焼きの末に訪れる驚き、喜び、あるいは歯がゆさ。それが焼きものというなりわいの奥深さにつながっているのではないでしょうか。とくにここ立杭は、大規模な工業化の道を進まず、手仕事の窯業を続けてきた土地です。この地で、人為と自然のあいだに立って、自己の表現を追求し続ける陶工たち。彼らに宿る「継承の力」をご覧ください。

オーディオガイド2

継承

窯と焼き

成形された陶土は、火で焼かれることによって固まり、強固な器物になります。その際、釉薬や陶土素地、灰に含まれる成分が、窯内部の温度や炎の流れ、酸素量によって、時に思いがけない色や質感を生み出します。つくり手の想像を超える変容が生まれる瞬間。それはつくり手を魅了してやまないものです。

現在、丹波焼の陶工たちは、薪窯(穴窯・登り窯)、ガス窯、灯油窯、電気窯と複数ある焼成方法の中から、自身の理念に合わせて、あるいは作品ごとにふさわしいものを選んでいます。施釉のやり方も同様で、無釉の焼締もあれば、焼成中の灰が降りかかって付着する「自然釉」を生かしたもの、あるいは陶工自身の手で灰や鉱物を配合した「人工釉」を使用したものなど、さまざまです。

いずれの手法にせよ「窯と向き合い、焼く」という行為の中で、想像を超える瞬間を待ち続けること。その願いにも似た心は、これからも変わることはないでしょう。

A Ⅱ

現代陶工の仕事エリア

融合

現在の学術研究においては、丹波焼は平安時代末期、常滑焼など東海地方からの影響を受けて始まったとされています。その一方で伝承の世界では、平安時代初期に風呂藪惣太郎という萩の陶工がこの地に陶法をもたらしたという言い伝えも残っています。伝承の真偽はさておき、これらのことから伺えるのは、丹波焼は常に内なる発展と外からの刺激が化学変化を起こしながら進化してきたということです。

江戸時代初期につくられ、今なお珍重される「赤土部(ルビ:あかどべ)」は、登り窯の導入とともに、備前などからの影響を受けて生まれたと言われています。また江戸時代後期に誕生した「白丹波」は、当時人気を博していた、有田焼や京焼などの絵付け磁器への憧れから生まれました。

この小さな村落に深く根を下ろしつつ、外界とも間接的につながっていた陶工たち。与えられしものと、外から取り込むものとのバランスをとりながら、この地の人々は約850年にわたって窯業の火をつないできました。ここではそのような「融合」の姿を、丹波や他産地の土で表現しました。

オーディオガイド3

融合

融合/七化け

骨董・古美術の世界では、いつの頃からか「わからないものは丹波にしておけ」という合言葉が語り継がれてきました。素朴な焼締の雑器もあれば、トリッキーで技巧的なフォルムもあり、華麗な絵付けをほどこされた器もあり、という多様性。「丹波焼とはこういうもの」という、わかりやすい定義づけを拒むような自由さと混沌。今ではその変幻自在な様を「丹波七化け」と表現することも。そこには、外の世界から流れ込んでくる「新しきもの」を、旺盛な好奇心とともに取り入れてきた丹波の陶工たちの柔軟さが見てとれます。

ここでは、そのような先人たちのDNAを受け継ぐように、外部からの刺激を取り込み、表現の地平を切り開いてきた現代陶工の作品をご紹介します。伝統的な「筒描き」と、英国で発展した「スリップウェア」の出会い。古代オリエントで生まれ、シルクロードを渡って日本に伝来したと言われる「象嵌(ルビ:ぞうがん)」と焼きものの合体。もともとはガラス工芸だった「切子細工」の、焼きものへの展開など。異質なもの同士の掛け算から生まれる「融合」の広がりを、感じてください。

動物工学×

私たち人間が、体に負担のない状態で自然に使えるような道具や家具、環境などをデザイン設計するための学問を「人間工学」といいます。近年はその考えを動物にも応用し、動物たちのQOLを上げようという動きが生まれています。

たとえば、まる松窯の松本格によるこのペットフードボウルは、愛犬や愛猫が食事をしやすいように考えられたもの。高杯型の器は、床置きした食器から食べる時に比べて、よりスムーズにえさが食道を通過しやすいのがポイントです。また犬や猫にとって黄色はもっとも認識しやすい色であることも考慮。一つひとつろくろで成形したぬくもりのある佇まいは、住まいの中で絵になります。

スリップウェア×

江戸時代に丹波で盛んに行われていた「筒描き」。素地の上に化粧土で文様を描く技法で、これとよく似たものがスリップウェアです。古く紀元前から世界各地に存在したスリップウェアの意匠が多彩に花開いたのは、中世以降、イギリスの製陶技術の発展によってでした。

その後、スリップウェアは大量生産品の普及とともに一度は廃れましたが、柳宗悦や濱田庄司ら日本の民藝運動家たちによって再び見出されます。柳らと親交のあったイギリス人陶芸家バーナード・リーチは、自らスリップウェアの制作に取り組み、日本の窯業地にもその技を伝えました。

丹窓窯もその影響を受けた窯で、6代目丹窓の時代に始まった英国リーチ工房との交流は、続く7代目茂良、8代目茂子に受け継がれ、丹波とイギリスの工芸美が融合した世界観を発信し続けています。

象嵌×

象嵌とは、金属・陶磁・木材などの素材の表面に、別の素材をはめ込んで意匠をつくる手法のこと。古代オリエントで生まれ、シルクロードを渡って奈良時代に日本に渡来したと言われています。

そんな象嵌を焼きものに取り入れているのが、市野悟窯の市野哲次と、昇陽窯の大上裕樹。市野は壺の上にフリーハンドで溝を削り、あらわれた幾何学模様に、独自ブレンドの化粧泥で彩色をほどこしています。白化粧で仕上げた線が全体に有機的なリズムを与え、象嵌が旅したさまざまな文化の美しさが鮮やかに立ち昇ります。

一方の大上は、丹波伝統の「しのぎ」と象嵌を融合。しのぎで削った破片を部分的に嵌め戻し、白化粧をほどこし焼成してから黒の彩色を加えることで、新たな造形の可能性を表しています。「象嵌」という共通点を背景に生まれた、まったく違うふたつの世界観です。

切子細工×

緻密な職人技が光る日本独自のカットガラス「切子細工」。ガラスの表面を研磨具で削って、文様を浮かび上がらせる手法で、江戸時代後期に始まった東京の江戸切子、鹿児島の薩摩切子などが知られています。

それらガラスとはひと味違う艶や陰影を醸し出しているのが、東山工房の市野弘明の作品。「光が乱反射して輝くような陶器をつくれないか」との思いで試行錯誤を重ねた表現は、期せずして切子との相似形になりました。成形した素地に細かく彫りを入れ、釉薬をかけて焼き上げることで、洗練された表情を生み出しています。

掻き落とし×

「掻き落とし」とは、器の素地に化粧土をかけてから、図案に沿って化粧土を削り取り、文様を浮かび上がらせる手法。化粧土を二層にするケースもあり、削り出された柄の立体感や色のコントラストが印象的な効果を生み出します。古く中国・北宋時代の焼きものに多く見られ、日本では桃山時代の美濃で焼かれた「鼠志野」が、掻き落としの代表的な作例となっています。

現在、掻き落としの手法を取り入れた焼きものをつくっているのが末晴窯の西端春奈と市野信行窯の市野信行。同じ技法を使いながらも、色づかいや意匠につくり手それぞれの感性が反映され、まったく違う世界観を生み出しているのが興味深いところです。

しのぎ×

戦前から戦後にかけて、柳宗悦や河井寛次郎、濱田庄司ら民藝運動の巨匠たちによって、丹波焼の美しさが見出されたこと。それは数々の民藝のつくり手が丹波を訪れる流れを生み、この里に新しい風を吹き込みました。そんな中、1959年にこの地に移住して窯を築いたのが、京都の河井寛次郎のもとで修行を積んだ生田和孝。そして、その生田の最初の弟子になったのが、俊彦窯の清水俊彦でした。

生田和孝のそばで13年間にわたって学んだ清水俊彦が、師から受け継いだもののひとつが、しのぎ(均等な幅で削りを入れ、稜線を出す技法)です。しのぎは江戸時代末期の傘徳利にも見られる手法ですが、民藝運動とともに生活陶器に注目が集まる中で、生田は東南アジアの骨董からヒントを得て、俊彦とともにしのぎの技を研究。もともと丹波にあったしのぎと、東南アジアのしのぎの出会いから、新たな生活陶器のスタイルが生まれました。

A Ⅲ

現代陶工の仕事エリア

展開

今なお愛好家を魅了し続ける丹波の古陶。その代表的な存在として「赤土部(ルビ:あかどべ)」「白丹波」「黒丹波」が挙げられます。器の水漏れを防ぐために塗った化粧土が、焼成の末に美しい赤から褐色に発色した「赤土部」。白い化粧土を用いて、まるで磁器のようになめらかなクリーム色の器肌を叶えた「白丹波」。そしてマンガンを含む岩石由来の石黒釉に代表される、艶やかな「黒丹波」。

これら赤・白・黒の表現は、いまだに製法が謎に包まれていたり、原材料が手に入らなくなってしまったものも多々あり、当時を再現することは非常に困難です。しかしそのことが、現代陶工たちの挑戦心をかき立てる原動力になっていることも事実です。

ここではそんな過去の名品に触発されながらも、それらをただ模倣するのではなく、独自のアプローチを模索する陶工たちの作品をご紹介します。中には、あっと驚くような思いがけない技術の転用もあります。過去の陶工たちと語らうように、競い合うように創作に挑む、彼らの軌跡。そこには、丹波という共通項を持ちながらも、「個」の創意工夫がそれぞれに際立つ、この産地の「らしさ」が詰まっています。

オーディオガイド4

展開

登り窯導入とともに始まった、近世丹波焼を象徴する存在「赤土部(ルビ:あかどべ)」。異彩を放つ赤の美しさは多くの人を惹きつけます。その一方で、江戸時代初期のごく限られた期間しか生産されず、忽然と姿を消してしまった理由や、当時の陶工たちがどのようにしてあの赤を生み出したのかという詳細な焼成方法まではわかっておらず、赤土部を巡る謎は今も解明されないまま残っています。そんな謎めいた赤を追いかける陶工たちの作品は、赤の顔料を使用したもの、鮮紅色の鉱石を配合した「辰砂釉(ルビ:しんしゃゆう)」を使用したもの、漆を焼きものに塗布するという平安時代の技の再現を試みたものなど、多彩です。

江戸時代後期、磁器への憧れを背景につくり出された「白丹波」。白土を原料とする化粧土を素地に塗って焼成することで生まれる、あたたかみのある白は、それまでの丹波焼とはひと味違う優美さにあふれています。「白丹波」の登場により、当時有田焼や京焼で人気を集めていた絵付けの器が丹波でも生産されるようになりました。当時、白土を丹波のどこで産出していたのか、今となってははっきりしない中、現代の陶工たちは別の白土や釉薬を用いて、たおやかな白を追求しています。質感や温度感もさまざまな「それぞれの白」をご鑑賞ください。

丹波の名産「黒豆」を思わせる艶やかで深い黒。マンガン成分を多量に含んだ黒石を砕いてつくった釉薬「石黒釉」を使用したものが代表的です。石黒釉の再現が困難になった今、かつての黒にインスパイアされて、現代の陶工たちもさまざまに工夫を重ねています。鉄釉を独自に調合するほか、黒の化粧土を塗って焼き上げたり、酸素を遮断して焼き上げる「炭化焼成」に挑んだり。艶やかな黒からマットな黒まで、人の数だけ色にも個性があります。

B

生活と作陶エリア

生活と作陶

東西を山に挟まれた、細い谷のような集落・立杭。今も里を歩けば、どこからか窯の煙が上がっているのが見えます。ここではそんな里の日常の風景を表現しました。丹波の土で制作した壁に映し出される、黙々と作業する陶工の姿。工房で使われる道具の数々。焼き上がったばかりの灰まみれの陶器。大規模な工業化や分業を行わず、家族単位の手仕事を守り続けてきた丹波ならではの気配を感じてください。

オーディオガイド5

生活と作陶

映像〈工房にて〉

来る日も来る日も、工房で陶土を練り、ろくろを回し、作品に意匠を加える陶工たち。体に染み込んだリズムが、ただの土の塊だったものに、次々と形を与えていきます。ここでは「つくること」は暮らしの一部です。

Filming cooperation: Toshihiko Kiln / Toshihiko Shimizu
Filmed by Hibiki Miyazawa

映像〈窯を焚く〉

成形や施釉を終えた器を、狭く細い窯に詰めたら、陶工たちは神棚に祈りを捧げ、そこから何十時間にも及ぶ窯焚きが始まります。窯の中で起きている変化を探りながら炎と向き合う、陶工の姿をご覧ください。

Filming cooperation: Denichi Ichino Kiln, Hiromichi Ichino, and XX
Filmed by Hibiki Miyazawa

映像〈立杭の里〉

東西を山に挟まれた細い谷間の集落、立杭。聖徳太子にもゆかりの深い虚空蔵山の眺めは、四季折々に趣を変えながら、人々の心を満たします。このランドスケープこそ、脈々と続く丹波焼の美意識の源泉かもしれません。

Filmed by Hibiki Miyazawa

焼き上がり、窯から出されるのを待つ陶器。陶工それぞれの個性がにじむ道具の数々。何百年もの昔と変わらない営みがここにはあります。土や火という自然に、自らの肉体で向き合う陶工たちの気配に触れてください。

“Firing the Kiln” (Video, 2026, ○ min.)

With the cooperation of XX Kiln, XXXX; XX Kiln, XXXX

C

歴史エリア

TAMBA Co-Temporary

丹波国の山間で始められ、その後、約850年にわたって連綿と続いてきた丹波焼。それは視野を広げてみれば、動き続ける日本、そして世界という大きな流れの一部でした。TAMBA Co-Temporaryというキーワードもまた、その認識から生まれています。ここ立杭は、山々に囲まれた貧しい農村でしたが、丹波、摂津、播磨という三国の国境が接する要所に近く、外からの刺激が流れ込んでくる窓はいたる所にありました。

Temporaryとは「一時的な、仮の」を意味する英単語ですが、大河のように見える歴史もまた、永続的ではないTemporaryな点の集まりといえます。それはまるで、無数の星が集まって形成する天の川のようなものです。焼きものを巡って、外からの刺激と内なる意志が出会った、いくつもの接点。丹波焼は、それら瞬間瞬間の「同時代性」を呼吸して発展してきました。

丹波焼の幕開けの地とされる三本峠に穴窯が築かれ、本格的な窯業が始まったのが平安時代末期。当時の遺跡から出土する陶片には、常滑など東海地方の焼きものの影響が見てとれます。

また江戸時代初期に登場した割竹式登り窯は、朝鮮半島の影響が色濃いものです。それは秀吉による朝鮮出兵により、多くの朝鮮陶工が日本に連れ帰られたことと無縁ではないと考えられます。

また江戸時代、丹波焼の表現が百花繚乱の様相を見せた背景にも、他産地からの刺激が感じられます。たとえば有田焼の華やかな絵付け磁器に影響を受けて発展した京焼が、次第に丹波焼にも影響を与えてゆくといった具合です。

ここではそういった外の世界の影響を受けながら発展してきた丹波焼の歴史をまとめました。数え切れない「同時代性」の点を打ち続けてきた丹波焼の歩みに、思いを馳せてください。

オーディオガイド6

TAMBA Co-Temporary

三本峠

丹波焼発祥の地とされる「三本峠」は、摂津・播磨・丹波という三国の国境に近い場所に位置しています。この山中の斜面を利用してトンネル状の穴窯が築かれたのが、平安時代末期。丹波焼最古の窯のひとつである三本峠北窯跡の確認調査では、長さ約14メートル、幅約2.2メートルの窯が見つかっています。穴窯で焼成すると、火の近くに置かれた焼きものには、薪の灰が多く掛かります。この灰が強い炎によって溶け、緑色のガラス質となって器肌を覆ったものを自然釉といい、穴窯時代の丹波焼の特徴のひとつになっています。

昭和52年の灰原(遺跡に見られる炭や灰、焼き損じの破片などの集積場)調査では、13世紀の常滑焼に似た甕(ルビ:かめ)や菊花文などの絵が刻まれた刻画文陶器の破片などが見つかりました。他産地の影響を感じさせるそれらとは対照的に、すり鉢は他産地のように櫛状の道具で筋目を入れるのではなく、ヘラを用いて一本ずつ線を彫るという、丹波ならではの独自性も見つかっています。その製法は、江戸時代になるまでの約400年間続きました。

筒描き

丹波では、江戸時代後期から明治・大正時代にかけて、酒や醤油などの運搬に使われる「通い徳利」が多くつくられました。別名「貧乏徳利」とも呼ばれたそれらの容器に、酒の銘柄や店の屋号などを記すのに使われたのが「筒描き」の手法。竹筒の下部に開けた穴に細い竹を差し込んだ道具を用いて、化粧土を細く線状に流しながら字や絵を描くものです。展示品の徳利は、篠山城下から出土したもの。竹筒を操って立体的な器に字や絵を描くには、おそらく熟練の技が必要だったと思われ、上手物でない雑器にも丹波陶工ならではの技巧が宿っています。

浮徳利

「こんなものがほしい」という使い手の欲求に応えてきた丹波焼。その「らしさ」を如実に感じられるのが、江戸時代後期以降に多くつくられた「浮徳利」です。これは燗酒をつくってそのまま宴席に出すための酒器。この時代にしか見られない薄造りで、中に7分目まで酒を入れて湯に浸けると、立ったままプカプカと浮くのが特徴です。浮徳利は全国各地でつくられましたが、とくに多く流通していたのが丹波焼だったと言われています。忙しい料理屋や宿屋で、同時に何本もの燗酒をつくるのに重宝したのでしょうか。胴部分のふくらみとくびれが形づくるなだらかなカーブが、心地よく手に添います。

赤土部

紫がかった赤褐色や赤茶色、緋色まで、さまざまな赤をたたえた「赤土部(ルビ:あかどべ)」。登り窯の導入とともに、備前などからの影響を受けてつくられ始めたと言われ、近世丹波焼を象徴する存在とも言えます。土部とは化粧土のことで、器の水漏れを防ぐため表面に化粧土を塗って焼き上げているのが特徴。なかでも赤土部の緋色に輝く発色の良いものは、数も少ないことから、丹波の古陶の中でもとくに珍重されるものの一つです。
現在、その製法についても研究がなされており、化粧土は鉄分を多く含む「丹土ベンガラ」か水垢の可能性が高いと見られていますが、焼成温度については判然としないところが多く残っています。

白丹波

あたたかみのある白い器肌が魅力の「白丹波」は、江戸時代後期からつくられ始めました。これは白土に杉灰釉を混ぜた白色の化粧土を素地に塗って焼いたもので、それまでの丹波焼とはひと味違う優美さにあふれています。
「白丹波」は、磁器を生産できない丹波において、磁器への憧れを背景につくられ始めたと見られています。「白丹波」の登場により、当時有田焼や京焼で人気を集めていた絵付けの器が、丹波でも生産されるようになりました。現在では、当時使われていた白土がどこで産出され、どのように焼かれていたのか、正確なところはわかっていません。それも現代陶工や丹波焼の愛好家を惹きつけてやまない理由となっています。

D

TAMBA GATEWAY CENTER ENTRANCE

The Living Spiral Tile Art

エントランス壁面を彩るのは、当館のシンボルともいうべきモザイクタイル。1000枚の陶器タイル制作には、50の窯元から60名を超える陶工が参加しました。集まった陶器タイルは、釉薬の種類も、装飾技法も、焼成方法もさまざまで、定型サイズの中でそれぞれの作風を雄弁に物語っています。

同じ歴史を受け継ぐ仲間として互いに刺激しあいながら、一人ひとりが独立独歩で自らの焼きものを追求している丹波。その多彩な個性が、寄り添い美しく調和するさまをご覧ください。

共催

丹波篠山市、丹波立杭陶磁器協同組合

企画

ミテモ株式会社

協力

兵庫陶芸美術館

Digital Archive

展示とはまた異なる視点から、丹波焼の魅力に触れていただける作品アーカイブです。陶芸家たちが生み出す多様な表現を、じっくりとご覧ください。